読書について – 速読・理解力・アウトプット –

 いわゆるプリンストン大学、カーネギーメロン大学、ハーバード大学などのエリート達が日常的に行っているのは本を一日平均5冊ほど読んでいるということです。勿論半分冗談であり、半分本当であり、半分都市伝説的な内容ではありますが、これが現実的に可能かというと実際可能なんですね。世間には速読教室があったりフォトリーディングであるとか本を素早く読んで記憶してゆくということにある種の技術や様式を獲得すれば可能であると謳う人々もいますが、これも半分冗談で半分本当みたいな話です。
 身も蓋もない話をすると、速読という技術を求めていて読みたい本がない人間(獲得したい情報がない人間)はその時点で速読は不可能です。おそらくこれは万物に共通の事実であると思うのですが、描きたい対象がない人間が絵描きになるのは無理です。英語で喋りたいことがない人間乃至聞きたいことのない人間に英語の学習は無理です。そういうことです。速読とはそういう技術で読書の中で獲得される技術です。ではどうしたら速読ができるようになれるかという話ですが、速読技術はいくつかのカテゴリーがあります。

  1. 専門分野、同ジャンル・同カテゴリー・体系や系統のまとまりで理解してゆく速読
  2. 実際の読む速さ、文字を物理的にインプットし理解してゆく速読
  3. 高機能自閉症的・アスペルガー症候群的な速読

専門分野、同ジャンル・同カテゴリー・体系や系統のまとまりで理解してゆく速読

おそらく門外漢が専門書を読むのは単純に難しい。難しいばかりか殆ど理解できないわけです。外国語はある意味では専門用語に等しいです。そういう意味では専門書はてにをは以外の単語のすべての意味がわからないということになる。例えば"L'Art pour l'art"といったときに専門家は、英語でもドイツ語でもフランス語でも同様に理解ができるし、その歴史的な文脈が理解できる。しかしわからない人には全くわからない。これらの知識の集積と体系化はその分野に関連したテキストの内容の理解を早める。法律家は実務の面でもおそろしい量の資料や参考文献、過去の事例や判例に目を通す必要があるので自ずと速読という技術が備わってくるような感じになってくる。この分野で実際に速読をしている人々は自分に速読の技術があるとは思っていない人が多いが、巷の平均的な読書のスピードの数倍の速さで読むことがすでにできていたりする。つまりその文章を読む前提となる知識が豊富なために効率よく理解ができるといったものです。これは速読に限らず別の分野でも全く同じです。街の住人と部外者がその街の目的地に到着する時間は地元民の方が早いに決まっています。
要所を捉える。専門書は自分の知りたい情報をピンポイントで獲得しにゆくという情報の取得方法をする場合があります。小説のように冒頭から結末までを読まないとストーリー全体がわからないといったことはない。その章によって分けられたテキストの一部を理解したいと思うことが非常に多いわけです。3章あるうちの2章の中身はすでに別の本を読んで理解しているという場合も少なくない。あるいはその書籍はそもそも自分の担当教授が執筆したもので殆どの章は講義の中で理解しているということもある。そういう意味ではその書籍を一冊読むことに要するエネルギーと時間は、何も知らない人間よりもひどく効率的になる筈だ。こういう状況下では、目次を読むだけで本の内容の8割ほど理解できたりする。この状況を「一冊本を読んだ」というひとつの経験値に加算することができる。読書から得られる情報の獲得は文字情報からのみではないということになる。
音楽を一回聞いただけでピアノので主旋律を再現できる友人がいます。彼女らの能力も実はここらあたりの能力と同じ分野なのだと思う。その証拠にポップソングのような単純なメロディーラインとコード進行に関しては即興的な再現が可能だが、聞いたこともないような民族音楽の再現はポップソングやロックと同様にはできない。(彼女いわく、バッハと松任谷由実の旋律は特に即興的な再現が難しいそうだ。)常に慣れ親しんでいる分野に関してはある程度先読みができるわけです。

実際の読む速さ、文字を物理的にインプットし理解してゆく速読

いわゆる速読といわれる技術はこのことを指していることが多い。この速読は練習過程からその技術習得の意味を理解できる。小学生の頃、国語の教科書の音読をしたと思う。小学校低学年の頃は単語と単語がバラバラでスラスラと読むことができない。多少頭の悪い子供は一行飛ばして読んでしまっても意味がつながっていないことに気が付かない。そもそも語彙が少ないので文節や意味の連なりが理解できずに切れ切れになる。しかし大人になると小学生の国語の教科書程度の文章はスラスラと読むことができるし、あるいは黙読だけでさらっと内容を理解することができる。
幼い子どもは、文字情報を一文字一文字で理解することからはじまるらしい。「あけましておめでとう」は「あ、け、ま、し、て、お、め、で、と、う」と理解している。しかし大人なるとそれらが一つの塊として「あけましておめでとう」という一つの単語に見える。この過程は、「あけまして、おめでとう」だったり「あけ、まして、おめでとう」だったり文字の切り方を諸々試しながら成長し、成人してからはもうその意味を考えることもなく無意識のうちに理解できる。小学生よりも大人がスラスラと音読できるのは、単語のまとまりを予め知っているからであるのと同時にその能力をバックボーンにして文字を追う視野が物理的に広いというのがある。通常大人が単行本を読むときには、一行の1/3ほど、多い人は半分ほどの文字量を視野に入れる。一行目の最初の一文字、2つ目の文字という順序で読んでゆく人はいない。皆かなり広い視野でいっぺんに単語情報を目からインプットする。
速読の訓練では、この視野を更に拡大する。2行、3行をいっぺんに読むこともできる。視覚は情報の把握が非常に早いので文字をインプットした後に情報を脳内で再構成するという処理に近い。もっというと視野から一気にインプットした情報のうち無意識の理解にまかせてしまう部分と理性的な理解にとどめておく部分と処理を分けて一気に意味化することができる。ロラン・バルトが「これはエクリチュールについての本である。日本を使って、私が関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。」という文節を見たとき、日本と私(ロラン・バルト)とエクリチュール」についての関係を読むことができればよいのであって、これらの文章のてにおはが何であっても構わない。ある数学者が「私は数学を通して人生についての本を書いた」といったものと同じ文脈だ。読書は読む量に比例して文章のコンテクストや構成を組織的に理解が可能になる。理解の組織化と物理的な視野を広げる訓練をすると、最終的には1ページをまるっと理解し読む、いわゆるフォトリーディングに近い読み方になってくる。
通常、一行ずつ読むのがノーマルな方法であるが、速読を訓練中には一行を視覚的に負いながら左右の行、つまりもうすでに読んでしまった行と次によむ行を同時に視覚にインプットしてゆく。意味化するとスピードを損なうので視覚として記憶する。現在読んでいる行を意味化しつつ、次の行の単語を視覚に入れ(予想し)、先程読んだ行の単語を視覚に入れ(復習し)という作業を同時に行ってゆく。

高機能自閉症的・アスペルガー症候群的な速読

私の友人に永遠に録画することができる人間がいる。録画媒体の容量はほぼ無限大である。学校の授業でノートをとったりはしない。なぜならテストの際に授業の風景を再生すればよいだけだからだ。急いでいるときは早回しをすることもできる。録画しているものなので、いつでもどこでも過去にあった映像に関しては何でも再生できる。彼はいわゆる高機能自閉症であり、この能力のおかげで記憶力が凄まじく見える。(実際は何も記憶していない。記録しているだけである。)彼は読書をする際もその読書を映像として録画するので、いつでも呼び出すことができる。この能力については実際のところ神経学的・精神医学的には何もわかっていない。しかしこれらのことは本当に存在するということだけはわかっている。

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